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さいとうとよさく 斎藤豊作
埼玉県に生まれる。1905年東京美術学校西洋画科選科を卒業。在学中黒田清輝に師事し、その関係から翌年フランスに留学するにあたって、黒田が学んだラファエル・コランに学ぶ。留学中コランに学びながらも、新印象派や後期印象派、フォーヴィスムなど、パリ画壇の新傾向にふれ、自由な制作活動に入る。1912年いったん帰国、同年の第1回光風会展に滞欧作を発表、翌年の第7回文展に新印象派風の傾向を強く打ち出した「夕映えの流」を出品する。同時期に帰国した山下新太郎らと文展を離れ、1914年二科会を結成、鑑査委員となる。1919年再度フランスに渡り、定住する。サント県のヴェネヴェルにて歿。(「パリ・日本・メキシコ 埼玉県立近代美術館所蔵作品による」図録 1992年)
カテゴリー:作家
ヨーゼフ・ホフマンとは?【 作家名 】 1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。 |
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