![]() |
|||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||
|
くらた はくよう 倉田白羊
埼玉県に生まれる。本名は重吉。1894年浅井忠に師事し、フォンタネージ系統のアカデミックな画風を学ぶ。1901年東京美術学校洋画科選科を卒業。同年群馬県の沼田中学校、ついで東京の時事新報社に勤務する。1908年山本鼎、森田恒友、石井柏亭らの美術雑誌「方寸」の同人となり、のちにその編集にたずさわる。1915年横山大観らの再興日本美術院の同人となり21年の第7回展まで出品をつづけるが、同年洋画部同人森田恒友、小林未醒らとともに退会し、22年梅原龍三郎、岸田劉生、斎藤与里らを加え、春陽会を創立する。同年山本鼎の農民美術運動支援のため、長野県上田市に転居する。晩年の画風は対象の簡略化と平面化にすすむ。(「パリ・日本・メキシコ 埼玉県立近代美術館所蔵作品による」図録 1992年)
カテゴリー:作家
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
||