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さいとうより 斎藤与里
1885年、埼玉県に生まれる。本名は与里治。20歳の時洋画を志して京都に出て、鹿子木孟郎の紹介で浅井忠の聖護院洋画研究所に学ぶ。1906年鹿子木に従ってフランスに渡り、10年まで滞在。アカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスの指導を受け、次いでランソンの画塾に学ぶ。帰国後制作と文筆活動を通じて後期印象派を紹介する。1912年高村光太郎、岸田劉生らとヒュウザン会を結成、明治末から大正期の洋画の進展に大きな役割を果たす。1915年以後文展に出品、16年の第10回展で特選を受賞する。1919年大阪美術学校を創立。1924年槐樹社の結成に参加し、雑誌「美術新論」の主幹として活躍。1932年東光会を組織する。(「パリ・日本・メキシコ 埼玉県立近代美術館所蔵作品による」図録 1992年)
カテゴリー:作家
タルとは?【 作家名 】 ネグリチュードの詩人としても知られた文人大統領サンゴールが打ち出した、新生セネガルの発足に際しての文化振興政策の思想は、アフリカの伝統的な精神をベースにして、西欧近代の物質文明を同化してゆこうというものであった。当時、パリから戻ったばかりのパパ・イブラ・タルは、サンゴールの理想の実現に向けて、ダカールの若い美術家たちを指導し、積極的に助言をあたえるなどした。やがて、これら一群の作家たちをエコール・ド・ダカールと呼び称するようになるのだが、彼らは仮面や神像などの伝統的なモチーフをキュビスムの手法を取り入れて、半抽象の様式で描くことに活路を見いだした。1966年、ダカールで開かれた第一回世界黒人芸術祭で、エコール・ド・ダカールは華々しく登場することになる。パパ・イブラ・タルも、この時にイバ・ンジャエによって企画された〈現代美術−傾向と対峙〉展に出品している。ここではエコール・ド・ダカールの第一世代の美術家たちがどのような顔ぶれであったのか、よく知ることができる。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年) |
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