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こばやし こう 小林孔
1927年栃木県に生まれる。多摩造形美術学校を経て、1953年東京芸術大学美術学部油画科を卒業する。1954年からモダンアート展に出品し、61年会友、64年会員となる。1961年から62年にかけてメキシコに滞在、シケイロスに師事し壁画の研究にあたる。毎年のように個展を開催するほか、1975年からサロン・ドトンヌに出品し、83年会員となる。1986年徳島大学教育学部教授、87年総合科学部教授となり、後進の指導にあたる。1992年徳島大学退官記念展を徳島県立近代美術館ギャラリー、徳島県立21世紀館多目的ホールで開催する。鮮やかな色彩を駆使し、直線的なブラッシングを強調した叙情的な抽象作品を描く。
カテゴリー:作家
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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