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いしはら ともあき 石原友明
1959年大阪府に生まれる。1984年京都市立芸術大学大学院修了。大学在学中より関西を中心に様々な展覧会に出品する。主な個展としてギャラリー白(83年、84年)、信濃橋画廊(85年、86年、88年−91年)がある。グループ展としては「イエス・アート」(ギャラリー白、82年の第1回から第3回まで連続出品)、「アート・ナウ’85」、「アート・ナウ’86」(ともに兵庫県立近代美術館)、「滋賀アニュアル’87−主張する人体」(滋賀県立近代美術館)、87年の「現代美術になった写真」(栃木県立美術館)、91年の「マニエラの交叉点−版画と映像表現の現在」(町田市立国際版画美術館)、92年の「彫刻の遠心力」(国立国際美術館)などがある。近年では「ヴェネツィア・ビエンナーレ・アペルト’88」(ヴェニス、イタリア)、89年の「MESSAGE AND COMMUNICATION」(清楠美術館 ソウル、韓国)、91年の「THREE NEW INSTALATIONS(マットレスファクトリー ピッツパーグ、アメリカ)などの海外展にも出品している。
カテゴリー:作家
帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 |
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