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あそう さぶろう 麻生三郎
1913年東京都に生まれる。2000年没する。1928年小林万吾の同舟舎洋画研究所で学ぶ。1930年太平洋美術学校に入学し、靉光、長谷川利行、高橋新吉らと知り合う。1933年美術学校を退学し、翌年から作品を発表し始める。1937年第1回エコール・ド・東京展に出品、38年数ヵ月間フランスに滞在し、帰国後39年第9回独立展に入選する。同年美術文化協会、また1943年に新人画会の結成にも参加。戦後、1947年新人画会の同人とともに自由美術家協会に加わり、52年には武蔵野美術学校(現武蔵野美大)教授となった。1959年第5回日本国際美術展で優秀賞、63年芸術選奨文部大臣賞を受賞する。1964年自由美術家協会を退会し、以後無所属で活躍している。美術団体連合展、選抜秀作美術展、現代日本美術展などにも出品している。焼けただれて、焦げついたようなマチエールの、暗褐色に塗り重ねられた色面の中に、家族の姿や自己の内面世界を浮かび上がらせる作風で知られる。
カテゴリー:作家
退廃芸術とは?【 美術用語 】 ナチスの芸術イデオロギーの標語。1933年にヒトラーが権力を握ると、それ以前のヴァイマール共和国時代に発展してきた表現主義やバウハウスなどの現代美術に「退廃芸術」の烙印を捺し、組織的に抑圧して行った。バウハウスは「文化的ボルシェビィズムの温床」として閉鎖され、現代美術運動に同調的な教師や美術館員は職を追われ、発言も封じられた。反面、運営・イデオロギーの両面で政府の統制下に置いたアカデミックな芸術を育成し、「退廃芸術」に対して「ドイツ芸術」と称した。1933年カールスルーエで開かれた「1918年から1933年までの公認美術」展を最初に、現代美術の面目を潰し愚弄しようとする展覧会が相次いで開かれるが、その頂点を成すのが、1937年ミュンヘンで開かれた「退廃芸術」展である。この展覧会のために全国から現代美術の作品が接収され、展覧会終了後、競売や画商を介して売られ、残りは1939年に焼かれた。 |
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