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かわい せいいち 河井清一
1891年奈良県に生まれる。1979年没する。父親の転勤にしたがって大阪で小学校を卒業する。1904年頃家族で徳島に移り住み1909年旧制徳島中学校(現県立城南高校)を卒業する。1912年東京美術学校西洋画科に入学し、在学中の1914年に第8回文展に入選し、卒業後は文展、帝展、新文展、日展、光風会展などに出品して受賞を重ねる。戦後は日展審査員、評議員、参与、光風会監事などの要職を歴任する。1922年には徳島在住の洋画家たちと、徳島洋画研究団を結成している。
カテゴリー:作家
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帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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