ぐるぐるアートワード
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山麓で羊といる少女



サン=ロック教会



サーレ



サー・ウィリアム・マクスウェル将軍の肖像



The Signified or If No.1



The Signified or If No.2



The Signified or If No.3



The Signified or If No.4



The Signified or If No.5



The Signified or If No.6



The Signified or If No.7



ザヴジェル



ザガッタ



雑誌「青騎士」



雑誌「自由」(ラ・リベルテ)



雑誌「微笑み」(ル・スリール)



雑誌「ル・ポンポン」



ザツキン



『ザ・ライフ・オブ・マン』



ザルテン


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 作家(1701)

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いまにし ちゅうつう

今西中通

1908年高知県高岡郡窪川町に生まれる。1947年没する。本名忠通。昭和2年(1927)画家を志し上京し川端画学校にはいる。のち、1930年協会研究所および独立美術研究所において、前田寛治里見勝蔵らの教えを受けた。昭和6年第1回展出品以来独立美術協会で作品を発表。昭和11年第5回展でD氏賞を受賞し、翌年会友となる。その後も、新聞社のカットを描きながら、セザンヌの影響を感じさせる作品を描く。昭和15年長野蓼科に転地療養、翌年からは姉の嫁ぎ先の香川県坂出市に移り療養する。昭和20年高松市が空襲で消失したときには救援で市内にはいり、その状況を描いている。同年の終戦後には、友人の絵画研究所設立の要請のため福岡に移る。昭和22年独立美術協会会員となるが、病状が悪化し同地で死去した。(「東四国阿波讃岐風景画展」図録 1993年)


カテゴリー:作家
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橋本雅邦とは?【 作家名 】

石見浜田藩主松平周防守の御用絵師、橋本養邦の子として、江戸に生まれる。養邦は、木挽町狩野家の狩野養信門下であった。幼名千太郎。狩野養信、雅信に入門。同門の狩野芳崖の帰郷後、弟子頭(塾頭)となった。万延元年(1860)に独立するが、幕末から明治維新の混乱期は、生活が困窮し、明治4年(1871)海軍兵学校に出仕。足かけ15年勤務する。明治15年(1882)頃から、内国絵画共進会などで受賞を重ね、フェノロサや岡倉天心の評価を得、鑑画会に参加。東京美術学校教授となり、天心のもとで、横山大観下村観山菱田春草などを育てる。明治23年(1890)帝室技芸員。明治31年(1898)には、天心に殉じて美術学校を退職し、日本美術院の創立に参加。主幹として院の運営をつとめた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)

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