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あらき かんぽ 荒木寛畝
1831年江戸に生まれる。1915年没する。旧姓田中、幼名光三郎。文晁系の画家荒木寛快の門に入り、後に養子となる。山内容堂の知遇を得、土佐藩の絵所預となる。明治5年(1872)には、ウィーン万国博覧会で受賞。容堂の没後、洋画を学びそれに専念。その後、日本画の制作にもどり、内国勧業博覧会や日本美術協会、またシカゴ、パリ、セントルイス万国博覧会など内外の展覧会で受賞を重ねた。明治31年(1898)、橋本雅邦の後任として東京美術学校教授。明治33年(1900)には帝室技芸員となる。内国勧業博覧会などで審査員を歴任する他、文展が開設されると審査員をつとめた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作家
青騎士とは?【 美術用語 】 1911年ドイツで革新的な目的を持つ芸術家たちがつくった緩やかな組織のグループにつけられた名称。グループの起こりは、1911年、カンディンスキーが、「新芸術家協会」の第3回展に出品を拒否されたことから、フランツ・マルクらと、ミュンヘンのタンホイザー画廊で対抗展を組織し、参加したグループを彼の小作品「青い騎士」にちなんで「青騎士(ブラウエ・ライター)」と命名した。参加者にはマッケ、クレーなどがいた。第2回展は1912年にミュンヘンで、版画を中心に開かれたがこれにはブリュッケのメンバーも参加し、また国際美術展の先駆ともいうべき性格のものであった。1914年の第一次大戦の勃発による解散した。グループには統合するような様式、教義はみられないが、内面的意欲が多様に形づくる形態の差異を示すことが共通の精神的基盤といえる。また、グループは同名の機関紙を発行したが、ここではヨーロッパの前衛芸術家の作品の他に、民芸品や児童画などの作品も評価し、現代的芸術観の礎石となった。 |
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