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きくち ようさい 菊池容斎
幕府の先手与力河原武吉の子として、江戸下谷に生まれる。名は武保、通称量平。雲水無盡庵、雲笠翁などとも号した。伯父の養子として菊池家を継承。狩野派、南蘋風の画を描いた高田圓乗に師事。狩野派、円山四条派、浮世絵などの他、中国絵画や西洋画法も学んだ。一方で、有職故実を研究し、『前賢故実』10巻を出版。歴史考証にもとづく歴史画を描き評価を得た。明治9年(1876)のフィラデルフィア万国博覧会や翌年の第一回内国勧業博覧会で受賞。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作家
池田蕉園とは?【 作家名 】 1886年東京都に生まれる。旧姓榊原、名は由理、通称百合子。父は泉州岸和田藩士、母は国沢新九郎、本多錦吉郎に油彩画を学んだと言う。麹町女子学院卒業後すぐ、16歳で水野年方に入門。1907年(明治40)東京府勧業博覧会で2等賞を受賞。同年の第1回文展で3等賞を受賞したのを最初に、第2回展、第3回展、第4回展と連続4回3等賞を受賞した。その後も第5回展、第6回展、第8回展で褒状を、第9回展で3等賞、第10回展で特選を受賞した。彼女のこうした活躍は上村松園と比され、西の松園、東の蕉園と並び称された。1911年には、婚約以来8年もの紆余曲折をへて同門の池田輝方と結婚、16年(大正5)第10回文展では夫婦そろって特選をとるなど、おしどり作家といわれた。結婚後の蕉園は、夫輝方をもりたてるために第一線から身をひくようなところがあり、そのために夢を追うような初々しさのただよう美人画から次第に作風が変化、江戸っ子の典型のような輪郭のはっきりした女性像になっていく。1917年肋膜炎のため31歳の若さで没する。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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