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さかい ほういつ 酒井抱一
姫路藩主酒井忠仰の次男として江戸に生まれる。名は忠因、字は暉真。号は鴬村、庭柏子など。俳諧、能、茶等をたしなむ粋人で、37歳で出家し、のちに雨華庵を営む。絵は、狩野派、浮世絵、長崎派などを学ぶが、寛政中期頃から光琳に傾倒。光琳百回忌の法要をいとなみ『光琳百図』を刊行したのをはじめ、『乾山遺墨』の刊行など、積極的に光琳画風の顕彰に努めた。また、門人を育成し、江戸における琳派の再興に尽くした。宗達や光琳の表現を学ぶだけでなく、円山四条派の写生を加えた表現を展開した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作家
ダダとは?【 美術用語 】 第一次大戦中、ヨーロッパおよびアメリカに起った運動。1916年、チューリヒのキャバレ・ヴォルテールで、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプらが、辞典の一頁から偶然に拾った言葉「ダダ」を用いた。大戦の不安のなかで、合理主義文明とその社会体制を否定し、破壊しようという運動で、おびただしいデモンストレーションとスキャンダルを通じて「なにも意味しない」虚無のダダを唱えた。この否定の精神は、ドイツではヒュルゼンベック、グロスらにより政治的色彩を濃くした。またニューヨークでマルセル・デュシャン、ピカビアらが写真のコラージュや、レティ・メイドのオブジェを使った時期をニューヨーク・ダダと呼ぶが、デュシャンの芸術そのものへの否定精神(反芸術)は、第二次大戦後の若い作家に受け継がれた。さらに1919年にケルンでエルンスト、アルプらが起したダダ運動は、偶然性や意識下の世界を通じて、のちにシュルレアリスムや抽象表現主義への道をひらいた。 |
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