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すずき しょうねん 鈴木松年
京都に鈴木百年の長男として生まれる。通称百太郎。百僊と号したが、のちに松年と改号。東錦僂主人、老龍館主人の別号がある。父に学ぶ。明治13年(1880)京都府画学校に出仕。翌年、百年の後任で北宗科教員となった。第一回内国絵画共進会で褒状を得たのをはじめ、同展で、銀章、妙技三等など受賞を重ね、また、内国勧業博覧会、日本美術協会展、新古美術品展、シカゴやパリの万国博覧会などで活躍した。初期の上村松園や土田麦僊が、一時、松年に学んでいる。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作家
ヨーゼフ・ホフマンとは?【 作家名 】 1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。 |
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