京狩野家の画家、狩野永泰の三男として生まれる。
狩野永岳は、叔父にあたる。父の没後、冷泉三郎為恭と称し、蔵人所衆岡田出羽守為純の養子となってからは、岡田姓を名乗った。父について狩野派の画法を学んだが、あきたらず、復古大和絵の研究を行った。有職故実は、青年時代から詳しかったといわれる。右大臣三条実萬の推挙で御所出仕となり、小御所の襖絵を制作。京都所司代、酒井家所蔵の古大和絵の臨模を行うなど酒井家との交流をもったことや、徳川家ゆかりの岡崎にある大樹寺の襖を描いたことが、勤皇派から反感を買い惨殺された。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)