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しみず とし 清水登之
栃木県栃木市に生まれる。幼少より絵を描くことが得意であった。軍人を志し、士官学校を受験するが失敗。翌明治40年(1907)二十歳で単身渡米し苦学した。その後、大正元年(1912)シアトルにあるフォッコ・タダマの塾に学び、本格的な絵画技術を修得する。更にニューヨークに出てナショナル・アカデミー・オブ・デザインに学ぶが、途中でアート・スチューデンツ・リーグに移り、国吉康雄らと出会う。その間にルネッサンス美術とアメリカのナイーブ・ペインティングに影響をうけた。大正13年には長い間の願望であった欧州へ渡り、パリにアトリエを構え制作を行なった。その後、中国を経て帰国、二科展に出品した。昭和5年(1930)、独立協会創立の際は林武、児島善三郎、高畠達四郎らとともに参加した。戦争中は従軍画家として戦地を描いたが、これ以降の制作の態度は日本の風土や生活を描くことを自らの主要な題材として制作を続けたが、太平洋戦争中に死去した。(「東四国阿波讃岐風景画展」図録 1993年)
カテゴリー:作家
ヴァーグナーとは?【 作家名 】 1857年から1860年、ウィーン工科大学に学び、1860年、王立のベルリン建築大学でカール・フェルディナント・ブッセに師事。1861年から1963年、ウィーン美術アカデミーで、アウグスト・ジカルド・フォン・ジカルズブルグとエドゥアルド・ファン・デア・ニュルに師事。1894年、キュンストラーハウスのインターナショナル展覧会での建築プロジェクト展。1895年から1913年、ウィーン美術アカデミー教授。1896年、著書「近代建築(シュロル社、ウィーン刊)」が出版される。1895年から1902年、市民鉄道の駅舎、及びドナウ運河の航路の建設を指揮した。1898年から1900年、ウィーンの家並みに沿う家々の建築。ウィーン分離派に加盟したばかリではあったが、1898年には第2回分離派展の装飾を行っている。彼は、様々な展覧会に出品したが、とりわけフランツ・ヨゼフ・クァイのためのデザインや家具、1905年のシュタインホフ教会の為のデザインなどを、展覧会に出品した。1898年から1900年、「ヴェル・サクルム」への絵画作品の提供。彼自身が表紙カバーをデザインした第2年次の第8号は、特別号として彼に献呈されている。1900年、「職業の中の芸術」に寄稿。1904年から1906年、ウィーン郵便貯金局の建築、1905年から1907年、シュタインホフの教会の建築。1905年、クリムト・グループと共にウィーン分離派を脱退。1908年から1909年、クンストシャウに参加。1909年、「大都市」を出版。1912年、デューラーガッセの賃貸住宅の建築、ここにはヨーゼフ・ホフマンの工房も入居した。友人グスタフ・クリムトと共に、新しく設立されたオーストリア芸術家同盟の副会長となる。1914年、「近代建築」の四度目の改訂版である、「同世代の建築芸術」を出版。 |
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