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のおす こうせつ 野生司香雪
香川県高松市に生まれる。本名は述太。仏門の家に生まれるが、幼少より絵を描くのがうまく、明治32年(1899)香川県工芸学校に入学。同級生に後に彫刻家の藤川勇造、漆芸家の磯井如真がいた。明治36年東京美術学校に入学、日本画科で下村観山に学び、新しい日本画を志す。同41年同校を卒業、画家を志し、美術研精会に参加、同会の展覧会や美校出身者の東台画会に出品。大正3年(1914)日本美術院が再興されると、研究会員として参加、同5年には院友となる。この頃インドのタゴールが来日。翌6年に香雪は仏教美術研究のためインドに渡り、荒井寛方に会いアジャンタ壁画の模写を手伝う。翌年帰国後、同壁画の模写展を開く。大正9年第7回再興院展でインドのアジャンタの石窟の朝を想起させる「窟院の朝」が初入選した。昭和7年(1932)仏教の途絶えたインドにある仏教四大聖地の一つの鹿野宛の地にセイロン人の手で建立されたムラガンダークチ・ビハーラ(初転法輪寺)の壁画を揮亳するためにインドに出発。昭和11年完成後に帰国。その後は画壇から離れ、仏画などを描く。昭和18年には長野市に疎開、善光寺雲上殿の壁画を描いた。(「東四国阿波讃岐風景画展」図録 1993年)
カテゴリー:作家
サンブとは?【 作家名 】 ダカールに生まれる。ダカール大学で哲学と法律とを修め、さらに、同地のエコール・デ・ボザールで美術を学ぶ。ラボラトワール・アジという美術、音楽、映画、演劇などあらゆる分野の作家たちの集めたグループの実質的な主宰者として、作家たちの精神的支柱となっている。彼はアフリカ諸国やヨーロッパを渡り歩き、現在ダカールにおいて、画家、彫刻家としても活躍している。身辺の社会的テーマを扱う彼の表現方法はインキ、グワッシュ、油彩、コラージュなど多岐にわたり、さらにインスタレーション、パフォーマンスといった空間表現も取り入れている。ダカールの中心街の一角ジュール・フェリー街の彼の家の庭は、ダカールの作家の集会所を兼ねており、今日のセネガル、ひいてはアフリカにおける現代美術の発信源となっている。彼はヨーロッパに出品されるアフリカの現代の作品は、結果的にヨーロッパのために造られた作品でしかないとしている。それはヨーロッパへの批判であると同時に、ともすれば白人たちに媚びがちな今日のアフリカ美術への痛烈な批判でもある。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年) |
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