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あらかわ しゅうさく 荒川修作
1936年愛知県に生まれる。武蔵野美術大学を中退した後1958年から61年まで読売アンデパンダン展に出品。1960年には篠原有司男、三木富雄、工藤哲巳らと共にネオ・ダダ・オルガナイザーズ・グループを結成する。ハプニングなどをする一方で、毛布や木綿、セメントなどで作った〈箱〉のシリーズを制作する。1962年に渡米し以後はニューヨークに住む。1963年頃から乳白色の地に図形や記号、言葉を描く〈ダイヤグラム〉のシリーズを制作。1968年には現代日本美術展で大賞を取る。1969年頃から〈意味のメカニズム〉のシリーズを制作。1970年にはヴェネチア・ビエンナーレに、77年には「ドクメンタ6」に出品する。言葉をイメージや物のシンボルとしてのみでなく、それ自体自律した描かれる対象としてとらえることは、意味作用とは何か、と問い直すことにもなろう。彼がコンセプチュアル・アートの先駆者の一人として評価されるゆえんである。2003年紫綬褒章を受章。
カテゴリー:作家
浅井忠とは?【 作家名 】 東京都に生まれる。1863年父の死去のため家督を相続し佐倉に帰郷。翌年佐倉藩の絵氏黒沼槐山に花鳥画を学ぶ。1873年上京し、箕作塾で英学を学び、1876年国沢新九郎の彰技堂に入門。初めて西洋画の初歩を学び、工部美術学校に入学してフォンタージに師事する。1878年フォンタネージの帰国後、後任のフェレッティを不満として美術学校を退学。1899年明治美術界を創立。1898年東京美術学校教授となる。1900年渡仏し、パリ近郊のグレーなどに滞在。1902年パリを立ち、イタリア、ドイツ、イギリスを巡歴して帰国。東京美術学校を辞し、京都工芸学校教授に就任して京都に移る。1903年自宅に聖護院洋画研究所を創設。1906年関西美術院を開設し、初代院長となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年) |
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