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ひがしやま かいい 東山魁夷
神奈川県横浜市に生まれる。本名は新吉。祖先は岡山県との県境に小さな島、香川県櫃石島の出身である。昭和6年(1931)東京美術学校日本画科を卒業、研究に進み、結城素明に師事する。在学中の昭和4年第10回帝展に「山国の秋」が初入選する。昭和8〜10年ドイツに留学し、その間に第1回日独文化交換学生となりベルリン大学で美術史を学んだ。帰国後は写生に立脚した詩情溢れる独自の日本画を制作した。昭和12年初めての個展を開催する。展覧会は官展を中心に出品するが、日本画院展等にも出品し受賞する。昭和22年第3回日展で「残照」が特選。昭和31年には「光昏」で日本芸術院賞を受賞、同40年には日本芸術院会員となった。昭和44年文化功労賞と同時に文化勲章を受章。近年は唐招提寺の壁画の制作にも心皿を注いだ。かつて留学したドイツや、オーストラリア、中国など外国の風景画も積極的に描き現代日本画の風景画の一つのスタイルを生み出した。
カテゴリー:作家
クリムトとは?【 作家名 】 1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ベネチア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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