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こいで ならしげ 小出楢重
大阪市に生まれる。明治40年(1907)大阪市立市岡中学校を卒業し、東京美術学校西洋画科を受験するが、日本画科に編入され鶴田機水に師事。明治42年白馬会西洋画科に転科。大正3年(1914)東京美術学校を卒業。大正8年第6回二科展で樗牛賞を受賞。翌年第7回二科展で二科賞を受賞し、科会会友となる。大正10年渡欧、大正12年二科会会員となる。大正13年鍋井克之、黒田重太郎、国枝金三らと信濃橋洋画研究所を開設、毎年研究所展を開催するなど関西洋画壇の指導者として活躍した。昭和2年(1927)信濃橋洋画研究所を公募制とし、全関西洋画展として開催。この年随筆集「楢重雑筆」を出版。翌年谷崎潤一郎の「蓼喰う蟲」の挿し絵を描く。(「東四国阿波讃岐風景画展」図録 1993年)
カテゴリー:作家
デュシャンとは?【 作家名 】 1887年フランスに生まれる。1968年没する。ジャック・ヴィヨンとレイモンド・デュシャン・ヴィヨンは兄にあたる。1904年から5年にかけてパリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ。兵役を径て1906年パリへ戻る。フォーヴィスムや未来派、キュビスムなどの新しい潮流に触れる。1913年ニューヨークで開かれた「アーモリー・ショー」に〈階段を降りる裸婦〉を出品する。キュビスムと未来派を結合したようなこの作品は話題を呼ぶ。第1次世界大戦を機に1914年ニューヨークに渡り、ピカビア、マン・レイらと共にニューヨーク・ダダの中心として活動する。レディ・メイドを始め、1917年には既製の便器にR・MUTTとサインしただけの〈泉〉を発表した。1915年から23年にかけては大きなガラス板に鉛の糸と油彩で描いた〈独身者によって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)〉を製作した。芸術という制度を強烈に拒否した彼は、今世紀の最も影響力を持つ芸術家の1人として認められている。 |
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