ぐるぐるアートワード
データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。
ぐるぐるもくじ


ワイエス



ワイヤーマン



ワイン



若い婦人の肖像



若い婦人の肖像



若林奮



脇田和



『私好みのオブジェ』 トリノ



わたしと鳥と音楽と (2)恵比寿まわし



渡瀬政近



渡辺崋山



渡辺豊重



ワタラ



ワットフォード



我々はここにいる



ワーグマン



ワーグマン



ンガンド



ンゲッサン



ンテンデュ


<前 (1/1ページ) 次>

●もくじのさくいん

    

    

記事カテゴリ

 すべて

 作家(1701)

 作品(1851)

 美術用語(163)

 その他(1)


よしだ よしひこ

吉田善彦

大正元年(1912)、現在の東京都品川区に生まれる。本名誠二郎。最初、南画家中田雲暉に絵を学び、芝中学校在学中に画家になることを決意した。昭和4年(1929)17歳の時に、速水御舟に師事、画家としての生涯にわたるほどの影響を受けた。御舟の義兄吉田幸三郎とは従兄弟同士で、御舟とは姻戚関係にあった。昭和10年(1935)御舟亡き後は、小林古径安田靫彦の指導を受ける。昭和12年(1937)第24回院展に「もくれんの花」が初入選し、以後、院展への出品を中心に画業を展開して、39年(1964)日本美術院同人となる。一方、昭和15年(1940)法隆寺金堂壁画の模写事業に従事し、橋本明治班で助手を務めた。16年(1941)第28回院展に「滝」を出品し、院友となり、同年御舟門下の同志とともに、園丘会を結成する。19年(1944)召集を受け、21年(1946)復員。同年から再び、壁画模写に従事する。24年(1949)法隆寺金堂の炎上により、壁画は焼失し、26年(1951)模写事業は一段落をみ、29年(1954)奈良を引き払って帰京する。この間も院展に出品を続けており、39年(1964)同人に推挙されている。また、47年(1972)に発掘された、高松塚古墳の壁画調査などにも携わっている。55年(1980)までの間は、東京芸術大学で後進の指導にあたる。御舟から学んだ写実性と日本の古典の模写を、作画上の基盤としている善彦にとって、法隆寺金堂の壁画模写事業に参加したことは、技法および画面づくりに大きな影響と実りをもたらした。淡雅で繊細な色調の清らかな画情をみせつつ、吉田様式ともいうべき世界を築き上げている。(「滋賀県立近代美術館所蔵作品による 日本画に見る画家のまなざし」図録 1998年)


カテゴリー:作家
  いまクリックまたは、検索したキーワードの解説

小林古径とは?【 作家名 】

1883年新潟県に生まれる。本名は花吉。はじめ郷里で日本画を学んだのち、1899年(明治32)に上京し、梶田半古の画塾に入門する。同年の第7回日本絵画共進会・日本美術院連合絵画共進会に初入選し、以後同会に出品、毎回受賞を重ねた。1907年に巽画会会員となる一方、東京勧業博覧会では褒状を受賞し、第1回文展にも出品した。また国画玉成会にも出品した。1909年に岡倉天心の指導を受けて、翌年紅児会会員となり、同会に出品を重ねた。1912年(大正元年)の第6回文展で褒状受賞。1914年の日本美術院再興に参加して第1回展に出品し、同人に推挙され、18年には評議員となった。1922年に日本美術院留学生として前田青邨とともに渡欧。翌年の帰国後は、院展の代表的な画家として活躍した。1935年(昭和10)帝国美術院会員、37年帝国美術院会員、44年帝室技芸員、東京美術学校教授となった。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)

  画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。

キーワード検索




けんさくけっか

キーワード

小林古径

キーワードを含む記事
6件見つかりました。

  奥村土牛

  古塔遠望

  小林古径

  小山大月

  前田青邨

  吉田善彦


<前   次>

徳島県立近代美術館2006