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もり たかゆき 森堯之
1915年徳島県に生まれる。1944年没する(ビルマ)。旧制徳島中学(現・城南高校)を経て、1934年帝国美術学校西洋画科に入学。在学中の1936年同級の浅原清隆らとグループ「表現」を結成し、作品を発表。また、1937年第7回独立美術協会展に〈たそがれの街〉で初入選して、シュルレアリスムの影響をうけた作品画壇の脚光をあびた。独立展には第8回、第9回展まで連続入選。1938年の第8回表現展には、永井東三郎と共同で実験作品〈フィンガー・ピクチャー〉を出品。1939年「表現」を解散し、主だったメンバーと共に美術文化協会の結成に参加した。写真にも造詣が深く、帝国美術学校卒業後は、名取洋之助の日本工房にカメラマンとして入社し、対外宣伝雑誌『NIPPON』朝鮮特集号の取材で朝鮮に派遣された。当時の前衛美術を代表する一人と目されたが、1941年に応召、44年ビルマで戦病死した。
カテゴリー:作家
帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 |
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