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さいうちいっしゅう 斎内一秀
東京で生まれる。大正14年(1939)に山元春挙(1871−1933)に師事「早苗会」に入る。春挙没後は「早苗会」引き継いだ川村曼舟(1880−1942)について学ぶ。のちに山口華楊(1889−1984)の「晨鳥社」に所属する。昭和16年(1941)に第4回新文展に山岳を描いた「翠巒」が入選し、つづいて第5回の新文展には滋賀の湖西地方の柵田を描いた「六月の頃」で連続入選している。戦後は昭和21年(1946)の第1回日展は「冬日和」が、翌年の第3回日展には「早苗の頃」が撰に入っている。明るい色彩による平明な風景画に特色がある。
カテゴリー:作家
バルビゾン派とは?【 美術用語 】 パリの東南、フォンテーヌブローの森の北西にある小村バルビゾンを、1830年頃からテオドール・ルソーやコローら若い画家たちが訪れ、風景を描いていた。そして、1835年のルソーに続いて、ミレー、コロー、トロワイヨン、ドービニー、デュプレらが、1840年代にかけて相次いで移住し、風景画を描くグループを形成した。この集団をバルビゾン派というが、それぞれ独自の画風をもっており、ミレー、コローなど、同じバルビゾン派としてひとまとめにするのが難しい作家もいる。しかし、おおむねコンスタブルやボニントンらのイギリスの風景画や、17世紀オランダの風景画からの影響が強い。当時、一般的となっていたイタリア旅行もせず、主にバルビゾンで制作した彼らにとって、自然は、ほとんど崇拝の対象に近いものであった。また、風景それ自体に興味を示し、古典的な規範に反抗するその態度は、当時としてはかなり革新的なものであった。すぐ後に続く写実主義や、印象派に与えた影響も少なくはない。 |
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