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ふじい じろう 藤井二郎
1906(明治39)年、大阪市に生まれる。25年に川端画学校洋画部、信濃橋洋画研究所に学ぶ。26年に第13回二科展に初入選。28年に渡仏し、グランド・ショーミエール研究所に通う。二科の先輩の高崎剛や向井潤吉らと交友があった。29年のパリ1回展の評ではその色彩感覚が注目されている。在仏中も二科展に毎年出品し、帰国した32年の第19回二科展では、山下新太郎、吉井淳二らの帰国者と共に滞欧作が特別陳列された。戦後は二科会再建に努力し、79年には文部大臣奨励賞を受賞。二科会理事も務めた。87年にサロン・ドトンヌ会員になる。92年西宮市で死去。(「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」図録 1998年)
カテゴリー:作家
ココシュカとは?【 作家名 】 1886年ニーダーエスタライヒ州のペヒラルンに生まれる。1905年、ウィーンの工芸学校に奨学生として入学。1907年からウィーン工房で働くようになり、1908年、自作の詩にクリムトへの献辞と8枚のリトグラフをつけた絵本『夢みる少年たち』をウィーン工房より出版する。同年と1909年の「クンストシャウ」に出品する一方、ポスター・デザインなども行っている。また1908年には戯曲『殺人者、女たちの希望』を執筆しており、グラフィックと文学を統合した、ウィーンでは独自の表現主義的な活動を始める。この頃、A.ロースと親交を結び、ロースの勧めで肖像画を多く描くようになる。1910年には、ベルリンで創刊されたばかりの『デア・シュトゥルム』の「今週の顔」欄の人物画を担当する。第一次世界大戦で重傷を負いその後1919−24年までドレスデンのアカデミーで教鞭をとる。ナチス政府主催の「退廃芸術展」(1938年)に自分の作品が出品されるとイギリスへ亡命、その後も世界各地を巡り精力的に制作活動をする。1953年にはザルツブルグに「視るための学校」を開設し、以後10年間そこで教える。1980年スイス、モントルーで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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