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はせがわ はるこ 長谷川春子
1895(明治28)年、東京に生まれる。25歳の時鏑木清方に弟子入りする。その2、3年後には油絵を学ぶため梅原龍三郎が勧めた研究所に通った。1929年に渡仏。藤田嗣治を訪れ,アトリエにしばしば出入りする。29、30年にはパリのザック画廊で個展を開催し、《笛を吹く男》などを出品。31年に帰国。その年の国画会展に《笛吹き》など数点を出品。11月には滞欧作品展を東京で開いた。32年には国画会の会友となり,太平洋戦争時には女流美術家奉公隊委員長になる。晩年は源氏物語をモティーフにした作品を制作。小説の挿絵も手掛ける。67年東京で死去。(「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」図録 1998年)
カテゴリー:作家
分離派とは?【 美術用語 】 ラテン語の動詞SECEDO(分離する)を語源としたヅェツェッシォーン。「分離派」と訳されている。19世紀末以降、ドイツ・オーストリアの各地では、既存の保守的・閉鎖的な芸術家協会等の機構のなかでは自由に発表活動ができない、発表の場が与えられていないと考えた、進歩的な芸術家たちが、官営事業化している展覧会とは別に、彼ら自身の協会や展覧会組織を持とうとし、相次いで新しく芸術家集団を結成した。「ヅェツェッシォーン(分離派)」とは、こうして結成されたグループにつけられた名称である。最初の創設は、1892年にシュトゥック、トリュブナーらを指導者としたミュンヘン分離派である。1897年には、クリムトを会長とするウィーン分離派が、1898年に、リーバーマンの指導のもとにベルリン分離派が成立した。ベルリン分離派は、「ブリュッケ」のメンバーを含む表現主義作家の出品拒否が原因で、1910年に再び分裂、新分離派が結成され、その最盛期をむかえた。分離派には特定の様式・理念はないが、建築・デザイン史からは、近代運動のひとつとみなされることもある。 |
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