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かみながい ただし 上永井正
1899(明治32)年、広島に生まれる。14歳の時に仏道に入った父親と共にオランダ領東インド(現インドネシア)へ渡り、1926年まで農園で働いた。帰国後27年に渡仏。独特のスタイルの額縁を製作して生計をたてた。藤田嗣治、ヴァン・ドンゲン、ボナールらと交わっている。28年にサロン・ドトンヌなどに入選。28年の日本美術大展覧会、翌年のパリ1回展、パリ2回展に出品した。40年一時帰国。翌年藤田の助言で南米に向い、リオ・デ・ジャネイロに魅せられ、55年までブラジルに住み,南米で画家としての地位を築いた。57年再び渡仏。82年パリで死去。(「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」図録 1998年)
カテゴリー:作家
竹内栖鳳とは?【 作家名 】 京都に生まれる。本名恒吉。はじめ四条派の土田英林につくが、17歳のとき幸野楳嶺に入門。棲鳳の号を受ける。楳嶺やフェノロサの示唆で、四条派の伝統だけでなく、幅の広い古画を研究した。若くして、内国絵画共進会などで入選し、受賞。明治25年(1892)の第21回京都博覧会での受賞作〈猫児負喧〉は、折衷的表現であったため「鵺派」と批判されたが、その後もさまざまな展覧会で受賞を重ねた。明治28年(1895)京都市立美術工芸学校教諭。明治33年(1900)には渡欧し、帰国の後、号を栖鳳と改めた。明治40年(1907)に文展が開設されると、毎回審査員をつとめ、京都市立絵画専門学校教諭、同教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任。長く京都画壇の指導的存在であった。画塾竹杖会からは、多くの逸材を輩出した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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