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こうだかつた 香田勝太
1885(明治18)年、鳥取県に生まれる。1910年に東京美術学校西洋画科を卒業。藤田嗣治とは同期。この頃から、油絵具を使って屏風などに東洋画風の表現で花卉を描き始める。10年第4回文展に初入選。以降晩年まで文展、帝展、新文展を主要な発表の場とし、国民美術協会展、白日会展などにも出品した。26年渡仏。サロン・ドトンヌ、サロン・ナショナルに出品。27年の第3回在巴里日本人美術家展、大戦傷病兵義捐展覧会日本美術家部門などにも出品。29年に帰国。滞欧作品展を三越ギャラリーで開く。31年から女子美術専門学校で教鞭を執る。46年鳥取で死去。(「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」図録 1998年)
カテゴリー:作家
ダダとは?【 美術用語 】 第一次大戦中、ヨーロッパおよびアメリカに起った運動。1916年、チューリヒのキャバレ・ヴォルテールで、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプらが、辞典の一頁から偶然に拾った言葉「ダダ」を用いた。大戦の不安のなかで、合理主義文明とその社会体制を否定し、破壊しようという運動で、おびただしいデモンストレーションとスキャンダルを通じて「なにも意味しない」虚無のダダを唱えた。この否定の精神は、ドイツではヒュルゼンベック、グロスらにより政治的色彩を濃くした。またニューヨークでマルセル・デュシャン、ピカビアらが写真のコラージュや、レティ・メイドのオブジェを使った時期をニューヨーク・ダダと呼ぶが、デュシャンの芸術そのものへの否定精神(反芸術)は、第二次大戦後の若い作家に受け継がれた。さらに1919年にケルンでエルンスト、アルプらが起したダダ運動は、偶然性や意識下の世界を通じて、のちにシュルレアリスムや抽象表現主義への道をひらいた。 |
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