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おか しかのすけ 岡鹿之助
1898(明治31)年、東京に生まれる。1924年東京美術学校を卒業するとすぐ南城一夫と共に渡仏。25年藤田嗣治の勧めでサロン・ドトンヌに出品し入選。27年の『修禅寺物語』上演に際しては,高野三三男と共に藤田が背景のマケットを作る助手を務めた。第二次大戦勃発による半ば強制的な帰国までのあいだ、岡は精力的に制作活動を行なった。36年にはサロン・ドトンヌの会員になり、サロン・デ・ザンデパンダンやサロン・デ・テュイルリーにも参加している。38年の第1回巴里日本美術家展では陳列委員を務めている。帰国後は春陽会に所属して制作。78年死去。(「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」図録 1998年)
カテゴリー:作家
分離派とは?【 美術用語 】 ラテン語の動詞SECEDO(分離する)を語源としたヅェツェッシォーン。「分離派」と訳されている。19世紀末以降、ドイツ・オーストリアの各地では、既存の保守的・閉鎖的な芸術家協会等の機構のなかでは自由に発表活動ができない、発表の場が与えられていないと考えた、進歩的な芸術家たちが、官営事業化している展覧会とは別に、彼ら自身の協会や展覧会組織を持とうとし、相次いで新しく芸術家集団を結成した。「ヅェツェッシォーン(分離派)」とは、こうして結成されたグループにつけられた名称である。最初の創設は、1892年にシュトゥック、トリュブナーらを指導者としたミュンヘン分離派である。1897年には、クリムトを会長とするウィーン分離派が、1898年に、リーバーマンの指導のもとにベルリン分離派が成立した。ベルリン分離派は、「ブリュッケ」のメンバーを含む表現主義作家の出品拒否が原因で、1910年に再び分裂、新分離派が結成され、その最盛期をむかえた。分離派には特定の様式・理念はないが、建築・デザイン史からは、近代運動のひとつとみなされることもある。 |
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