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やまだ しんいち 山田新一
1899(明治32)年、台湾で生まれる。川端画学校、東京美術学校西洋画科ともに藤島武二に師事する。佐伯祐三と交友。京城第二高等普通学校教師として京城府(ソウル)に渡り、総督府主催朝鮮美術展に出品。1926年の帝展に初入選。28年渡仏。パリではアマン=ジャンに師事し,ザッキン、ロートらと交遊。サロン・ドトンヌなどに出品。28年8月に親しかった佐伯が亡くなると、佐伯の作品の件で薩摩と接触している。29年ニースでルネ・モレスと二人展を開催。翌年帰国後京城に戻る。戦後は京都に住み、光風会、日展の重鎮となる。91年京都で死去。(「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」図録 1998年)
カテゴリー:作家
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藤島武二とは?【 作家名 】 鹿児島県鹿児島市に生まれる。初めは日本画を志し郷里で修業。上京し明治18年(1885)川端玉章に入門する。しかし明治23年洋画に転じ、同郷の曽山幸彦の指導をうけ翌年には明治美術会の会員になる。その後山本芳翠らに学び、明治29年黒田清輝らの白馬会の結城に参加する。同年東京美術学校洋画科の助教授となる。黒田からは外光派描写の影響を受けるが、生来の浪漫的、装飾的な変質は変わらなかった。明治38年文部省の命で43年まで渡欧しアカデミズムを学び、帰国後は東京美術学校教授となる。その後は官展を中心に我が国洋画画壇の指導的な役割を担った。作風は帰国後の模索の時代を経て、東洋的な人物画を描く。大正8年(1919)帝展審査員、同13年には帝国美術院会員となる。昭和に入って3年(1928)には皇室から委嘱のあった作品の題材を求めて、日本各地は言うに及ばす、台湾、蒙古、満州と取材旅行して数々の風景を描いた。昭和9年には帝室技芸員、同12年には第1回の文化勲章を受章した。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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