![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
えびはら きのすけ 海老原喜之助
1904(明治37)年、鹿児島市に生まれる。中学卒業を待たずに上京し、川端画学校に通う。1923年渡仏。藤田嗣治を訪れ、以後薫陶を受ける。27年サロン・ド・レスカリエにジャコメッティらと招待出品し、エコール・ド・パリの新人として注目される。28,29年とニューヨークで個展を開催。この頃からブリューゲルに傾倒。仏蘭西日本美術家協会の絵画部陳列委員として創立趣意書に名を連ねたが、同会の展覧会には不出品。理由は不明。34年帰国。35年独立美術協会会員。59年の日本国際美術展の最優秀賞など数多くの賞を受賞。渡欧時藤田の最後を看取る。70年パリで客死。(「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」図録 1998年)
カテゴリー:作家
マティスとは?【 作家名 】 1869年フランスに生まれる。1954年没する。はじめは法律を学ぶが、まもなく画家を志す。22歳からパリでギュスターヴ・モローの指導を受け始める。この頃、ルオー、マルケ、ピサロらと知り合う。また、ルーヴル美術館で名作の模写を多数行う。1903年のサロン・ドトンヌ設立に参加する。1905年の同展では、ドラン、ヴラマンク、ルオーらと共に、その大胆な色彩と激しい筆致が注目を集め、半ば嘲笑を込めて「フォーヴ」と呼ばれた。1909年にロシアのシチューキン家のために大作〈ダンス〉を、また32年にはアメリカのバーンズ財団のために壁画〈ダンス〉を制作するなど、各地で活躍する。また1921年からは、パリとニースを往復する生活を送る。1940年のパリ陥落の後、ブラジルの渡航を試みるものの南仏に留まる。戦後も、切り絵、挿絵本、タピスリーなど幅広い活動を続け、特に南仏ヴァンスの礼拝堂の装飾は、彼の才能の集大成と言われる。20世紀美術においてピカソと匹敵する成果を残した一人といえるだろう。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||