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おくだ ほうげん 奥田芳彦
日本画家。明治後期に活躍した日本画家。徳島市寺島町に生まれた。本名は光榮。別号は遅牛、黙示庵。はじめ森魚淵に住吉派の絵を学び、のちに上京して日本美術院の画家橋本雅邦に師事した。橋本の門下生が組織していた二葉会の研究会で研鑽を積む。1906(明治39)年1月の例会では、門人が持ち寄った作品の中で、奥田の〈元禄美人〉が1等賞に選ばれている。同年3月に二葉会が開いた展覧会では、〈小督〉が銅賞となった。この他、やはり日本美術院系の小団体である美術研精会や巽画会にも関係した。巽画会が開いた展覧会では、1909(明治42)年第9回展で〈照日の前〉が3等銅牌、1911(明治44)年第11回展で〈夏の夕〉が褒状3等となった。(「開館10周年記念展 近代徳島の美術家列伝」図録 2000年)
カテゴリー:作家
藤島武二とは?【 作家名 】 鹿児島県鹿児島市に生まれる。初めは日本画を志し郷里で修業。上京し明治18年(1885)川端玉章に入門する。しかし明治23年洋画に転じ、同郷の曽山幸彦の指導をうけ翌年には明治美術会の会員になる。その後山本芳翠らに学び、明治29年黒田清輝らの白馬会の結城に参加する。同年東京美術学校洋画科の助教授となる。黒田からは外光派描写の影響を受けるが、生来の浪漫的、装飾的な変質は変わらなかった。明治38年文部省の命で43年まで渡欧しアカデミズムを学び、帰国後は東京美術学校教授となる。その後は官展を中心に我が国洋画画壇の指導的な役割を担った。作風は帰国後の模索の時代を経て、東洋的な人物画を描く。大正8年(1919)帝展審査員、同13年には帝国美術院会員となる。昭和に入って3年(1928)には皇室から委嘱のあった作品の題材を求めて、日本各地は言うに及ばす、台湾、蒙古、満州と取材旅行して数々の風景を描いた。昭和9年には帝室技芸員、同12年には第1回の文化勲章を受章した。 |
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