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おおた さぶろう 太田三郎
彫刻家。戦前戦後を通じて活躍した彫刻家。宮崎市に生まれた。旧姓は大谷。後に海部郡日和佐町の親戚の養子となり、太田姓を継いだ。旧制宮崎県立都城中学を卒業後、川端画学校でデッサンを学び、1929(昭和4)年東京美術学校彫刻科を卒業した。また美術学校在学中から、藤川勇造に師事した。1926(大正15)年、第13回二科展に初入選。その後も二科展に入選を続け、1930(昭和5)年の第17回展では樗牛賞を受賞、翌年には会友に推挙された。藤川の死後、二科会を離れ1935(昭和10)年に新彫塑協会を結成した。1943(昭和18)年、徳島県日和佐町に疎開し、以降、徳島を拠点として活動を続けた。戦後は県展の彫刻部門の審査員を務めたほか、徳島中央公園の平和記念塔《子供像》や、日和佐駅前の《海亀》など多くの作品が設置されている。(「開館10周年記念展 近代徳島の美術家列伝」図録 2000年)
カテゴリー:作家
ハンス・リヒターとは?【 作家名 】 1888年、ドイツに生まれる。1908年から09年にかけて、ベルリンの美術アカデミーとヴァイマルの美術学校で学ぶ。「シュトゥルム」や「アクツィオーン」などのグループを通じて、ドイツ表現主義を知る。第一次世界大戦中は従軍するが、1916年に負傷して除隊、チューリッヒにて、ツァラやアルプらと共にチューリッヒ・ダダを始める。1919年、ベルリンに戻り、絵画の音楽化を目指して、21年に最初の抽象映画〈リズム21〉を制作する。この後、ガボ、リシツキーらロシア構成主義者やモンドリアン、ドゥースブルフらザ・スティルの人々と交流を深める。形と色という基本要素をもとにした抽象的な作品を制作する一方で、盛んに映画制作に取り組む。1926年の〈映画研究〉、27年、最初のシュルレアリスム映画の一つといわれる〈午前の幽霊〉などが有名である。ナチスの台頭と共に1931年、早々とドイツを逃れ、主としてフランスとスイスに住む。1941年、自由な制作を求め、アメリカに亡命する。翌年にはニューヨーク市立大学の映画研究所の所長に迎えられた。1944年から47年にかけて映画〈金で買える夢〉をエルンストらの協力により制作した。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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