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おおむら こうよう 大村広陽
広陽は広島県沼隈郡東村のひと。本名種五郎。明治44年美工絵画科、大正3年絵専を卒業。竹内栖鳳に師事し大正3年竹杖会に入る。絵専在籍時に新古美術品展に出品し、4等褒状をうけること3回。明治44年第5回文展に「休み」が初入選し、以後官展で活躍を続ける。主に動物を画題にした季節の情景を得意として後に花鳥画もよくしたが、文展では褒状3回、帝展・新文展では昭和4年以後無鑑査となっている。戦後は一時筆を置くが、昭和29年第10回日展「冠鶴」や同40年第8回新日展「光堂開扉」など新たな傾向の作品を発表して日向市の自宅で没するまで盛んな制作を続けた。
カテゴリー:作家
構成主義とは?【 美術用語 】 ロシア革命前から1920年代にかけてソ連で展開された芸術運動。ウラジーミル・タトリンが1913年に始めた鉄板や木片によるレリーフを「構成」と呼んだのを発端とする。現実の素材による非再現的構成という造形理念は、ロドチェンコなど多くの共鳴者を得て、構成主義という運動に発展し、モスクワの前衛美術界を、マレーヴィチの提唱したシュプレマティズム(絶対主義)と二分した。革命後は、革命政府の美術政策の推進勢力となり、絵画、彫刻をブルジョワ芸術として否定するとともに、鉄・ガラスなどの工業生産物の使用と社会的効用性を主張し、建築・デザイン・舞台美術などの分野にも拡がり、1920年には造形芸術の各分野をほとんど支配した。運動としては1919年頃から効用派と純粋造形派とに分裂し、純粋造形派のペヴスナー、ガボらは運動を離れ、効用派もその後産業との一体化を推進したが1930年代に政府より批判され終結したが、国外の抽象芸術運動に与えた影響は大きい。タトリンの「第3インターナショナル記念塔(模型)」はその代表的作品。 |
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