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いけだ らくちゅう 池田洛中
本名彦太郎。はじめ加藤英舟に師事し、昭和2年に京都市立絵画専門学校卒業後も研究科に在籍するが、在学中から院展、国画創作協会展などに入選、8年には堂本印象の東丘社に入り、以後帝展に出品する。16年には東丘社を辞して川端龍子の青龍社に参加、36年には社人に挙げられる。41年龍子の死による青龍社解散後は、専ら個展によって作品を発表した。鮮やかな色彩と洋画的描写によるダイナミックな作品を描いた。(「京都国立近代美術館 所蔵名品集[日本画]」増補版 2003年)
カテゴリー:作家
ココシュカとは?【 作家名 】 1886年ニーダーエスタライヒ州のペヒラルンに生まれる。1905年、ウィーンの工芸学校に奨学生として入学。1907年からウィーン工房で働くようになり、1908年、自作の詩にクリムトへの献辞と8枚のリトグラフをつけた絵本『夢みる少年たち』をウィーン工房より出版する。同年と1909年の「クンストシャウ」に出品する一方、ポスター・デザインなども行っている。また1908年には戯曲『殺人者、女たちの希望』を執筆しており、グラフィックと文学を統合した、ウィーンでは独自の表現主義的な活動を始める。この頃、A.ロースと親交を結び、ロースの勧めで肖像画を多く描くようになる。1910年には、ベルリンで創刊されたばかりの『デア・シュトゥルム』の「今週の顔」欄の人物画を担当する。第一次世界大戦で重傷を負いその後1919−24年までドレスデンのアカデミーで教鞭をとる。ナチス政府主催の「退廃芸術展」(1938年)に自分の作品が出品されるとイギリスへ亡命、その後も世界各地を巡り精力的に制作活動をする。1953年にはザルツブルグに「視るための学校」を開設し、以後10年間そこで教える。1980年スイス、モントルーで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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