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こまつ ひとし 小松均
大正9年上京し、川端画学校に入る。13年第4回国画創作協会展に入選、土田麦僊の知遇を得て、翌年京都に移り、麦僊の山南塾に学ぶ。第5回国画創作協会展で国画賞を受賞し、会友となる。昭和3年の同協会解散後は、帝展と院展に出品する一方で、若手による研究会を結成、活動する。21年日本美術院賞を受賞、同人に推挙されてからは、院展を中心に作品を発表し、25年ころから川崎で粟の栽培をしながら制作に励むが、31年京都大原に移り、大原や郷里大石田の最上川、さらには富士山の連作など、スケールの大きな画業を展開した。(「京都国立近代美術館 所蔵名品集[日本画]」増補版 2003年)
カテゴリー:作家
青騎士とは?【 美術用語 】 1911年ドイツで革新的な目的を持つ芸術家たちがつくった緩やかな組織のグループにつけられた名称。グループの起こりは、1911年、カンディンスキーが、「新芸術家協会」の第3回展に出品を拒否されたことから、フランツ・マルクらと、ミュンヘンのタンホイザー画廊で対抗展を組織し、参加したグループを彼の小作品「青い騎士」にちなんで「青騎士(ブラウエ・ライター)」と命名した。参加者にはマッケ、クレーなどがいた。第2回展は1912年にミュンヘンで、版画を中心に開かれたがこれにはブリュッケのメンバーも参加し、また国際美術展の先駆ともいうべき性格のものであった。1914年の第一次大戦の勃発による解散した。グループには統合するような様式、教義はみられないが、内面的意欲が多様に形づくる形態の差異を示すことが共通の精神的基盤といえる。また、グループは同名の機関紙を発行したが、ここではヨーロッパの前衛芸術家の作品の他に、民芸品や児童画などの作品も評価し、現代的芸術観の礎石となった。 |
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