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はやし たけし 林武
1896年東京府(現東京都)に生まれる。1975年没する。本名は武臣。1920年日本美術学校に入学するが、翌年退学する。1921年二科展で樗牛賞、22年平和記念東京展覧会で褒状、二科展で二科賞を受賞する。1923年円鳥会の創立に参加し、26年一九三〇年協会会員、二科会会友となる。1930年二科会を退会し、独立美術協会の結成に参加、翌年の第1回展以降毎回出品を続ける。1934年ヨーロッパに渡り、制作のかたわら各地をまわって翌年帰国する。戦後は美術団体連合展、秀作美術展、日本国際美術展、現代日本美術展などにも出品し、1949年毎日美術賞、56年現代日本美術展大衆賞、59年日本芸術院賞、67年朝日文化賞、文化勲章をうける。初期にドランやマティスの影響をうけ、フォーヴィスムを基調としながら独自の構成理論を展開、重厚な質感をもった作風をみせる。1952年から63年にかけて、東京芸術大学教授をつとめる。(「ピカソと日本」図録 1990年)
カテゴリー:作家
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バウハウスとは?【 美術用語 】 1920年代のドイツで近代デザインの中心地となった建築と応用美術のための学校。デザインと工業技術の間に橋をかける重要な役割をはたした。1933年にナチスの圧力で解散してから教授陣と学生が各地に移住したため、バウハウスの理念は多くの国々に広められ、1930年代と40年代における近代主義のシンボルともいえる存在となった。バウハウスの創設は、1919年に、旧ヴァイマール美術アカデミーとヴァイマール美術工芸学校がグロピウスによりひとつにまとめられたことに始まる。グロピウスの最初の思想は、すべてを包含する近代的で構成的な芸術を実現して、モニュメンタルな要素と装飾的な要素の分離をなくそうとするものであったが、さらに1923年には、工業的大量生産用のデザインを行う工芸家が重要であるとした。このため、バウハウスは産業界と密接に関係を持ち、多くの製品を生み出した。その特徴は非個人的で幾何学的で厳格なことであり、むだを省き素材を研究し、洗練された形を持っており、ヨーロッパの建築・応用美術に大きな影響を与えた。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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