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とみとり ふうどう 富取風堂
東京に生まれる。本名は次郎。松本楓湖(ふうこ)の画塾に入り、今村紫紅(しこう)や速見御舟(ぎょしゅう)とともに学んだ。紫紅が結成した赤曜会や、目黒派の研究会にも参加している。一九一五年(大正四年)の第二回再興日本美術院展に初入選し、以後、日本美術院を活躍の舞台としていった。原富太郎(三渓)をめぐる画家の一人でもある。大正期には細密な描写の表現を行い、一九三七年頃から素朴な味わいのある画風に変化させた。日本美術院の同人となり、第二次世界大戦後は、評議員や監事、横山大観記念館の常務理事などもつとめている。
カテゴリー:作家
ヨーゼフ・ホフマンとは?【 作家名 】 1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。 |
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