![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
しゅうげつ とうかん 秋月等観
薩摩(現在の鹿児島県)島津家の武士だったが出家し、山口の雲谷庵で、雪舟(せっしゅう)に絵を学ぶ。諱(いみな)が等観。姓は高城(たき)だったと伝えられている。雪舟の高弟となり、蔵主(ぞうす)の職にあった。画法伝授の印可(証明)と考えられる〈雪舟七十一歳像〉を、師の雪舟から与えられたことでも知られている。山口からいったん薩摩に帰り、一四九六年頃(明応五年頃)、明の時代の中国にも渡っている。浙江省の景勝地を描いた〈西湖図〉(石川県立美術館蔵)がある。帰国後は、九州で雪舟画風の水墨画を広めたと言われる。
カテゴリー:作家
パスキンとは?【 作家名 】 1885年ブルガリアに生まれる。1930年没する。本名はユリウス・ピンカス。父はユダヤ系スペイン人、母はイタリア人。ウィーンで絵を学んだ後、1904年、ミュンヘンの諷刺雑誌『ジンプリツィスムス』の専属契約画家となり、この時から本名のピンカスではなくパスキンと名乗る。1905年パリに行き、エコール・ド・パリの仲間入りをする。1914年から20年まではアメリカで暮らし、この時にアメリカ国籍を得る。その後ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、キューバ、アルジェリア、イタリア、スペイン等、各地を放浪した。1930年、パリのジョルジュ・プティ画廊での個展前夜に自殺。淡彩と無駄のない線によって描かれた彼独特の女性像は、ゆらめくような透明感を持っており、エロチックな憂愁を帯びている。退廃的なその作品には、新しい発見や革新性は見当らないが、彼の鋭く神経質なまでの危うい感受性が表現されている。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||