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しゅうげつ とうかん 秋月等観
薩摩(現在の鹿児島県)島津家の武士だったが出家し、山口の雲谷庵で、雪舟(せっしゅう)に絵を学ぶ。諱(いみな)が等観。姓は高城(たき)だったと伝えられている。雪舟の高弟となり、蔵主(ぞうす)の職にあった。画法伝授の印可(証明)と考えられる〈雪舟七十一歳像〉を、師の雪舟から与えられたことでも知られている。山口からいったん薩摩に帰り、一四九六年頃(明応五年頃)、明の時代の中国にも渡っている。浙江省の景勝地を描いた〈西湖図〉(石川県立美術館蔵)がある。帰国後は、九州で雪舟画風の水墨画を広めたと言われる。
カテゴリー:作家
荒井寛方とは?【 作家名 】 1878年栃木県に生まれる。町絵師荒井藤吉の長男、本名寛十郎。1899年(明治32)上京し、水野年方に入門。鏑木清方、池田輝方、大野静方とともに年方門の四天王と称される。絵画共進会、東京府観業博覧会に入選し、また国華社に入って古美術の模写に才能を発揮する。1907年の第1回文展に入選し、ついで第2回、第3回で連続して3等賞を、第4回、第5回で褒状を受けた。1914年(大正3)に日本美術院が再興されると出品し、第1回展で院友に第2回展で同人に推挙された。来日したタゴールの求めに応じて1916年インドに渡り、足かけ3年にわたって絵画教師としてベンガル地方の文芸復興運動に寄与した。一時院展内部にインド派的傾向を醸成させるが、後に日本回帰し、独自の仏画のスタイルを完成させた。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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