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しゅなーべる ジュリアン・シュナーベル
1951年アメリカに生まれる。1973年ヒューストン大学を卒業。ニューヨークのレストランで働きながら、ヒューストンの現代美術館やデュッセルドルフの画廊で個展を開く。彼に転機が訪れるのは1979年のことである。この年メアリー・ブーン画廊で開かれた2回の個展で、キャンバスに皿や陶器の破片をはりつけて彩色した巨大な作品群が話題を呼ぶ。プレート・ペインティングと呼ばれるこれらの作品は、1981年のレオ・キャステリ、メアリー・ブーン両画廊での個展と82年のアムステルダム市立美術館の回顧展にも出品された。暴力や死や神話などを荒々しく描いた彼の作品は、商業的な側面と関わりながら賛否両論をまきおこし、ポロック以来の、時代の人とさえいわれるほどになった。以後、彼をその象徴とするニュー・ペインティング現象が各地で生まれている。1986年から88年まで彼の作品展がロンドン、パリ、デュッセルドルフ、ニューヨークを巡回、また89年には大阪の国立国際美術館で歌舞伎の背景幕に描いたカブキ・ペインティングが公開された。(「なぜか気になる人間像 徳島県立近代美術館所蔵名品展」図録(埼玉県立近代美術館)1992年)
カテゴリー:作家
ラムとは?【 作家名 】 アイオワ州ティプトン生まれのラムは、ノードフェルト同様、ジャポニスムの真っ只中、シカゴのアート・インスティテュート・アートスクールで学んだ。初めて実験的な木版画を制作したのは、日本への新婚旅行で木版の道具を手に入れた後の1905年頃である。1907年に再び日本を訪れたラムは、今度は彫師の伊上凡骨(1875−1933)の下で3カ月間、伝統的な木版画の工程を学び、その後3年間はその手法を生かしてアメリカで制作した。1911年から1912年にかけて再来日した折には、東京で彫師と摺師を見つけ、集中的に自分の作品の制作に励んだ。ラムの木版にかける熱意に打たれた師の伊上凡骨は、「おそらく日本の多色摺木版芸術は外国人たちに乗っ取られてしまうだろう!」と、日本人が木版を低級な複製技法として蔑んでいる事実を嘆いている(「木版画の真価」『早稲田文学』7、1907年5月)。ラムが日本で活動した時期は、ちょうど創作版画運動の初期と重なったが、彼女の独創的な木版作品は日本の同時代の作家に多大な影響を与え、日本における木版の見直しの端緒となった。(M.Y.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
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