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さーれ デイヴィッド・サーレ
1952年アメリカ合衆国に生まれる。1975年カリフォルニア・インスティテュート・オブ・ジ・アーツで学位(MFA)を取得した後、ニューヨークへ移る。この年、マサチューセッツ州ケンブリッジで始めての個展を開催したが、実質的なデビューとなったのは、1981年、ニューヨークのメアリー・ブーン画廊における第一回目の個展である。この個展により、一躍脚光をあびる存在となった。翌年、メアリー・ブーン画廊とレオ・キャステリ画廊共同の個展を開催し、以後、この二つの画廊を中心に発表を続ける。また、同82年、ドイツ、カッセルにおける「ドクメンタ7」にも出品。1983年、ドイツのライン州立美術館などを巡回した、「バック・トゥ・ザ・USA」に出品。1987年、ニューヨークのホイットニー美術館で個展が開催され、同展は、アメリカ、カナダを巡回した。1980年代のニュー・ペインティングの中心人物の一人であり、女性の裸体と象徴的なイメージを、分割した画面や透視するような表現で重層的に構成した作品に特徴がある。
カテゴリー:作家
三宅克己とは?【 作家名 】 1874年徳島県に生まれ、1954年に没した。旧徳島藩江戸留守居役だった父が、蜂須賀家の養育係となったため、6歳のとき家族で東京に移住。近所には、洋画家・高橋由一の画塾があり、絵に関心をもつようになったと言われている。大野(曽山)幸彦、原田直次郎に洋画を学ぶが、来日中のイギリス人画家ジョン・ヴァーリー(バーレイ)の水彩画に感動し、水彩画家を目指すようになった。1897年、アメリカに渡り、一時イェール大学付属美術学校でも学んでいる。翌年ロンドンに移り、フランスやベルギーを経て帰国。その後、日本各地はもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、中国へたびたび出かけ、風景画を描き続けた。1899年白馬会会員。同会の解散後は、光風会の創立に参加。1907年に文展(文部省美術展覧会)が開設されると、第一回展から出品し、以後、文展や帝展(帝国美術院美術展覧会)、新文展、戦後の日展で活躍。1915年の文展で2等賞(最高賞)を受賞。翌年から無鑑査となり、帝展、新文展では審査員もつとめた。水彩画を独立した洋画の一分野ととらえ、透明水彩の繊細な表現を追求するとともに、水彩画に関する著書を多数刊行するなど、水彩画の普及に尽力した。昭和初期には、写真に関する啓蒙書も執筆。晩年の1951年、日本芸術院恩賜賞を受賞している。 |
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