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ほりうち まさかず 堀内正和
1911年京都府に生まれる。2001年没する。10歳代半ばから村山知義などの新しい美術を紹介した著作に親しみ、1927年に木と針金と白ペンキによって初めて構成派風の作品を制作。1928年東京高等工芸学校に入学し彫刻を学び、具象彫刻を翌年の二科展に出品するが中退。二科会の美術研究所の番衆技塾に入り藤川勇造の指導を受ける。1933年胸部疾患のため制作を一時中断、療養後の36年抽象彫刻を二科展に出品する。第2次世界大戦中は制作から離れ、アテネ・フランセでフランス語やラテン語を学ぶが、戦後の1947年二科会に復帰。1954年から鉄熔接彫刻による幾何学形態の構成に取り組み、60年代半ばからは目だましを誘うユーモラスな作風に転じる。近年は再び幾何学的立体による構成的な作品を制作。1963年に高村光太郎賞を、69年には第1回彫刻の森美術館現代国際彫刻展大賞を受賞。1950年から74年まで京都市立芸術大学で後進の指導にあたった。
カテゴリー:作家
バウハウスとは?【 美術用語 】 1920年代のドイツで近代デザインの中心地となった建築と応用美術のための学校。デザインと工業技術の間に橋をかける重要な役割をはたした。1933年にナチスの圧力で解散してから教授陣と学生が各地に移住したため、バウハウスの理念は多くの国々に広められ、1930年代と40年代における近代主義のシンボルともいえる存在となった。バウハウスの創設は、1919年に、旧ヴァイマール美術アカデミーとヴァイマール美術工芸学校がグロピウスによりひとつにまとめられたことに始まる。グロピウスの最初の思想は、すべてを包含する近代的で構成的な芸術を実現して、モニュメンタルな要素と装飾的な要素の分離をなくそうとするものであったが、さらに1923年には、工業的大量生産用のデザインを行う工芸家が重要であるとした。このため、バウハウスは産業界と密接に関係を持ち、多くの製品を生み出した。その特徴は非個人的で幾何学的で厳格なことであり、むだを省き素材を研究し、洗練された形を持っており、ヨーロッパの建築・応用美術に大きな影響を与えた。 |
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