![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
じょーんず フランク・ジョーンズ
1902年アメリカ合衆国テキサス州クラースヴィルに生まれる。1906年実母に見捨てられ、ウィリー・D・ベイカーとデラ・グレイに育てられる。1941年から60年にかけて、テキサス州内で刑務所の出入獄を繰り返す。1949年には養母デラ・グレイが殺害され、彼女の殺害にかかわったため、終身刑を宣告される。1958年から62年は、刑期を9年間務めたため仮釈放されるが、仮釈放期間中、ある犯罪にかかわり、告発されて、1962年まで再度終身刑に服する。「壁」と通称されるハンツヴィル刑務所で服役、作業の手なぐさみに紙と色鉛筆で制作を始める。1962年、ハンツヴィル刑務所の中の病院で死去。(「アフリカン・アメリカン美術展」図録 1993年)
カテゴリー:作家
円山応挙とは?【 作家名 】 丹波国穴太村(現京都府亀岡市)に生まれる。通称は、岩次郎、左源太、主水。仲均、夏雲、仙嶺とも号したが、明和3年(1766)応挙と改め、晩年まで落款などに用いた。15歳頃、京都に出て鶴沢派の石田幽汀に師事。生活のため、眼鏡絵の制作を行い、奥行きのある表現を獲得。その後、自然を写生の態度で捉えた〈雪松図〉などの表現、日本や中国の伝統と写生との融和をはかった装飾的表現を生み出す。円満院、三井家、宮中などの庇護を受け、多くの門人とともに障壁画を制作。最晩年の〈保津川図屏風〉が画業を集大成した作品とされている。彼の表現は、円山四条派という画派を形成して広がり、明治に至るまで影響をおよぼした。近代の京都画壇にとどまらず近代「日本画」をつくりだす重要な要素となった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||