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おーう゛ぁーすとりーと ジョー・オーヴァーストリート
1933年アメリカ合衆国ミシシッピー州コネハッタに生まれる。1941年から46年、ジョージア州、ニューヨーク州、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州などに毎年転居を繰り返す。1951年から52年にかけてコントラ・コスタ・カレッジで学び、52年にはサンフランシスコにスタディオをつくる。1953年、カリフォルニア美術学校へ通う。ウォルト・ディズニー・スタディオで、アニメーション・アーティストとして働く。1953年から58年には商船隊で働く。1954年メニール財団奨学金を受ける。1958年詩人ボブ・カウフマンと共に、ニューヨーク州ニューヨークへ移る。1970年から73年にはカリフォニア州立大学ヘイワード校で教鞭をとった。1973年コーニー・ジェニングとスティーヴ・キャノンと共にウォーターゲートを扱った劇“Snakeshiiit”を書く。1974年コーニー・ジェニングとサムエル・C・フロイドと共にニューヨーク州ニューヨークに“Kenkeleba Hause”を設立する。(「アフリカン・アメリカン美術展」図録 1993年)
カテゴリー:作家
円山応挙とは?【 作家名 】 丹波国穴太村(現京都府亀岡市)に生まれる。通称は、岩次郎、左源太、主水。仲均、夏雲、仙嶺とも号したが、明和3年(1766)応挙と改め、晩年まで落款などに用いた。15歳頃、京都に出て鶴沢派の石田幽汀に師事。生活のため、眼鏡絵の制作を行い、奥行きのある表現を獲得。その後、自然を写生の態度で捉えた〈雪松図〉などの表現、日本や中国の伝統と写生との融和をはかった装飾的表現を生み出す。円満院、三井家、宮中などの庇護を受け、多くの門人とともに障壁画を制作。最晩年の〈保津川図屏風〉が画業を集大成した作品とされている。彼の表現は、円山四条派という画派を形成して広がり、明治に至るまで影響をおよぼした。近代の京都画壇にとどまらず近代「日本画」をつくりだす重要な要素となった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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