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むらい まさなり![]() 村井正誠 ![]()
1905年岐阜県に生まれる。1999年没する。文化学院美術科に学び、在学中の1927年二科展に入選する。1928年文化学院を卒業すると同時にフランスに留学し、各地を旅行するかたわらアンデパンダン展に出品する。1932年帰国。1934年二科展から独立展に移るがすぐに退会し、同年、山口薫、長谷川三郎らと美術団体「新時代」を結成する。1937年「新時代」を発展的に解消して自由美術家協会を結成する。第二次大戦後、1950年に自由美術協会を退会して山口薫、荒井竜男、植木茂らとモダンアート協会を結成する。黒を基調とする一時期をはさんで、太い色線、色面のオーバーラップさせた構成による抽象作品を発表、日本の抽象絵画の先駆者の一人と目される。各種の国際展に出品し、1962年現代日本美術展最優秀賞、東京国際版画ビエンナーレ展文部大臣賞などを受賞、国際的な活躍をみせている。1973年神奈川県立近代美術館で、79年和歌山県立近代美術館で回顧展が開かれる。(「なぜか気になる人間像 徳島県立近代美術館所蔵名品展」図録(埼玉県立近代美術館)1992年)
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カテゴリー:作家
![]() ![]() ![]() チェシュカとは?【 作家名 】 ![]() 1878年ウィーンに生まれる。1894−99年、ウィーン造形芸術アカデミーに在学。1898年ゲルラッハ&シェンク出版社のためのポストカードや挿絵を制作。インゼル社など多くの出版社で装丁、グラフィック、広告などを制作する。1902−07年、ウィーン工芸学校で教え、1905年から教授になる。生徒の一人にO.ココシュカがいた。1907年ハンブルグの工芸学校に招かれ、やがて教授となり43年まで勤めた。ウィーン工房には1905年から参加。ハンブルクへ移ってデザイン活動を行う一方で、工房との協力関係も続く。1907年M.ラインハルトの演劇「リア王」の舞台装飾。1908年ゲルラッハ&ヴィートリンク出版社から舞台装飾の挿絵本『ニーベルンゲン』を刊行。工房のためにポストカード、挿絵、アクセサリー、刺繍、ステンドグラス、陶磁器、金属製品などをデザインした。また、キャバレー・フレーダーマウスのグラフィック、ホフマンが設計したホーホライトの狩猟小屋の装飾パネル、ストックレー邸のステンドグラス、パウル・ヴィトゲンシュタイン邸などの装飾も手掛ける。「分離派展」(ウィーン、1900、02、04年)、「装飾美術展」(トリノ、1902年)、「クンストシャウ」(1908、09年)、「工作連盟展」(ケルン、1914年)などオーストリア、ドイツ各地の主要な装飾美術展に参加。1960年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) ![]() ![]() ![]() |
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