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ふぁいにんがー リュオネル・ファイニンガー
1871年、ニューヨークに生まれる。ドイツ系アメリカ人。1887年、16才でドイツのハンブルクに渡り、当地の工芸学校、次いでベルリンの美術アカデミーで1891年まで学ぶ。新聞などに挿画を描いていたが、1906年、ヴァイマルにアトリエを構え、絵画制作を始める。また、パリを訪れ、キュビスムやオルフィスムに影響を受ける。線や面で分割された画面や、光線の表現を得意とした「ブラウエ・ライター」の活動にも参加誌、画家としてもその名を知られるようになる。1919年、ヴァイマルのバウハウス設立にあたって、グロピウスからいんさつ工房の親方として招かれる。1925年にデッサウに移ってからは、授業を担当しない親方としてデッサウが閉鎖になる32年まで在籍した。1937年の「退廃芸術展」にも選ばれるが、それに先立つ1936年に母国アメリカに帰国誌、カリフォルニア州オークランドのミルズ大学やノース・キャロライナ州のブラック・マウンテン大学の夏期講座などで教える。1955年には、アメリカ画家彫刻家連盟の名誉副会長となる。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年)
カテゴリー:作家
小川芋銭とは?【 作家名 】 1868年江戸赤坂溜池の牛久藩邸に、留守居役小川伝右衛門の長男として生まれる。幼名不動太郎、のち茂吉と改める。はじめ油彩画を本多錦吉郎に学ぶ。1888年(明治21)「朝野新聞」の客員となり、同紙に帝国議会開設のスケッチや漫画を発表した。この時から芋銭の号を用いはじめる。1893年廃藩置県で牛久に帰農していた一家のもとに帰り、農業に従事しながら制作を行った。「茨城日報」「いはらき新聞」に投稿、1911年小杉未醒と漫画展を開催した。1915年(大正4)平福百穂、川端龍子、森田恒友らと日本画研究団体、珊湖会を結成、1917年には日本美術院の同人となる。以後院展を中心に、沼畔や田園に題材を取った作品を発表した。明治後期に幸徳秋水などと交流し、平民主義の影響を受ける一方、老荘の思想に通じ、書や俳諧もよくした。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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