西海岸の裕福な家庭に生まれ、美術の教育にも恵まれた
ハイドは、サン
フランシスコのデザイン学校の後、ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグで学んだ。パリ滞在中に第一世代のジャポニストで、日本に何度も訪れたことのある画家
フェリックス・レガメーに強く影響を受け、日本や中国の事物、美術に興味を抱くようになった。1899年夏、短期間滞在のつもりで日本を初めて訪れるが、そのまま14年(途中アメリカに戻った1910年からの2年間を除いて)も東京の赤坂で
木版画の制作にいそしむこととなる。筆の使い方等、日本美術の基本的技法を狩野友信(1843−1912)に学ぶ一方、多色摺木版の技術はプラハ出身の画家
エミール・オルリク(1870−1932、1900年から日本に滞在)から学んだ。制作の効率を考えた
ハイドは、下絵を描いた後は、小林文七等の日本人の摺師や彫師に制作を任せている。同時代の作家
メアリ・カサット同様、
ハイドの作品には女性や子供、特に母子像が多く登場したが、
モデルは皆日本人や中国人であり、彼女の東洋への尽きない憧れや幻想が反映されている。(M.Y.)(「世紀末から 西洋の中の日本「
ジャポニスム展」図録)