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ほいっすらー ジェイムズ・アポット・マクニール・ホイッスラー
日本美術愛好家の最初の世代の一人で、日本の衣装や装飾品を取り入れた作品がその熱狂ぶりを伝えている。1850年代半ば、アメリカからロンドンにやって来てすぐ、日本の美術を発見したと考えられる。1850年代後半から1860年代の初めにかけて何度もパリに渡ったことで日本の作品に近づく機会が増え、また、関心も確実に高まっていった。パリでは、日本美術愛好家のフェリックス・ブラックモンやマネなど腐蝕銅版画家協会の版画家たちと親しく付き合った。また、この時期に制作したエッチングの多くが、ブラックモンに初めて日本の絵本を見せたと言われるオーギュスト・ドラートルによって刷られている。ロンドンの友人には、イギリスのラファエル前派のダンテ・ガブリエル・ロセッティとその弟ウィリアムがおり、彼らもまた1860年代の初めに日本美術を収集していた。ホイッスラーの浮世絵版画の影響は徐々に強まり、1870年代に入るとエッチングのカリグラフィックな描線や構図は広重風の浮世絵風景画を思わせるものとなっている。19世紀半ばの名だたる版画家たちと親交のあったホイッスラーは、日本美術の芸術的研究を促進する上で重要な役割を果たした。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作家
アルプとは?【 作家名 】 1886年フランスに生まれる。1966年に没する(オランダ、バーゼル)。ワイマール美術学校、パリのアカデミー・ジュリアンに学ぶ。1912年ブラウエ・ライター、翌年シュトゥルムの活動に関わり、16年からはダダの中心的人物として活躍する。1925年にはシュルレアリスムの運動に参加。また1930年にはセルクル・エ・カレ、翌年に「抽象・創造」と、抽象美術の活動にも参加、ダダと抽象美術にまたがる幅広い活動を展開した。絵画の他にも、コラージュ、彩色レリーフ、ちぎり絵のコラージュ(ハピエ・デシレ)、彫刻等を手掛け、更に詩人としても活躍する。1954年ベネチア・ビエンナーレ展で国際彫刻大賞、63年フランス芸術大賞を受賞。1965年ロカルノ名誉市民となる。1958年ニューヨーク近代美術館、62年にポンピドゥ・センターで大回顧展が開催された。(「なぜか気になる人間像 徳島県立近代美術館所蔵名品展」図録(埼玉県立近代美術館)1992年) |
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