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たんぎー イヴ・タンギー
1900年、フランス、パリに生まれる。1918年から19年にかけて、商船の船員としてアフリカや南アメリカをまわる。その後、徴兵などを経手、1923年正規の美術教育を受けないまま絵を描き始め、デ・キリコの絵や「シュルレアリスム」誌の影響を受け、25年からは詩人のプレヴェールと共にシュルレアリスムのグループに参加する。1930年代に入るまでには、少し有機的であいまいな形が夢幻的な風景の中に置かれているような、独自の作風を確立する。ヨーロッパに於いて、ファシズムが勢力を増すにつれて、彼もまた政治的な危機を感じ始める。1930年代半ば頃から、パリを去りたいと思っていたタンギーは、パリで出会ったアメリカ人女性、画家のケイ・セージと39年アメリカに亡命した。アメリカでもシュルレアリスムの仲間と交流誌、1942年の「亡命芸術家展」(ピエール・マティス画廊)やシュルレアリスム国際展である「ファースト・ペーパーズ・オブ・シュルレアリスム」展などに出品する。その作風は、基本的には幻想的なリアリズムをたたえているが、アメリカ時代は垂直性が増し、色使いが激しくなった分、詩的な魅力が欠けたと評されることもある。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年)
カテゴリー:作家
与謝蕪村とは?【 作家名 】 現在の大阪市に生まれる。江戸中期の俳人であり、画家。姓は谷口から与謝に改めた。蕪村は俳号で、画号は初め子漢。晩年に謝寅(しゃいん)とした。二十歳頃、俳諧を志し、江戸に下って早野巴人(はじん)に入門。巴人の没後、いまの茨城県など関東や東北を巡歴し、一七五一年(宝暦元年)、京都に居を結ぶ。丹後(現在の京都府)の宮津での滞在を挟み、以後は京都を拠点に活動した。絵画の面では、明清絵画のさまざまな画法を学び、南画の画法を吸収することで、自己の表現をつくりあげた。池大雅(たいが)とともに日本南画の大成者とされている。 |
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