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きーす う゛ぁん どんげん キース・ヴァン・ドンゲン
大胆なコントラストを用い、激しくしかも調和の取れた配色、また生気に満ちた筆触の生み出す輝かしい色彩でドンゲンは、早くから人々の注目をあつめた作家である。ありふれた主題に新鮮な生命力を強く吹き込む彼の画風は絶賛され1907、1908と相次いで画廊と契約するなど、彼はパリに集まった画家たちの中では異例の速さで成功を収めた画家である。その後、社交界とも拘わりを持つようになった彼は、当世風の肖像画で一躍社交界の流行画家となる。「ホドリ・ダッソン侯爵婦人」(No.117)はフォーヴ時代の作品を特色づける激しさは幾分影を潛めてはいるが、都会的な洗練された雰囲気が画面にあふれている。植田玲子(いわき市立美術館学芸員)(「パスキンとエコール・ド・パリ−1920年代 哀愁のパリ−」図録 1996年)
カテゴリー:作家
橋本雅邦とは?【 作家名 】 石見浜田藩主松平周防守の御用絵師、橋本養邦の子として、江戸に生まれる。養邦は、木挽町狩野家の狩野養信門下であった。幼名千太郎。狩野養信、雅信に入門。同門の狩野芳崖の帰郷後、弟子頭(塾頭)となった。万延元年(1860)に独立するが、幕末から明治維新の混乱期は、生活が困窮し、明治4年(1871)海軍兵学校に出仕。足かけ15年勤務する。明治15年(1882)頃から、内国絵画共進会などで受賞を重ね、フェノロサや岡倉天心の評価を得、鑑画会に参加。東京美術学校教授となり、天心のもとで、横山大観、下村観山、菱田春草などを育てる。明治23年(1890)帝室技芸員。明治31年(1898)には、天心に殉じて美術学校を退職し、日本美術院の創立に参加。主幹として院の運営をつとめた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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