![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
ぼんふぃす ロベール・ボンフィス
画家、版画家、室内装飾家。パリ生まれ。国立美術学校と国立装飾美術学校に学ぶ。仏蘭西芸術家協会展(サロン)やサロン・ナシオナル、サロン・ドトンヌ(1938年まで)に出品する。1937年、パリのマルサン館で開かれた「1900年から25年までの生活装飾」展に、66年には装飾美術館の「1925年代」展に出品している。エッチング・ドライポイント、リトグラフなどあらゆる版画の技法に精通し、なかでも1920年代初頭に再び盛んに制作されるようになった木版画を得意とした。30点ほどの書籍にイラストを描いているが、その半分近くは木版画による。1913年に創刊された『優品新聞』の最も重要なデザイナーの一人であった。(「黄金時代のポスター芸術」図録 1998年)
カテゴリー:作家
土田麦僊とは?【 作家名 】 1887年新潟県に生まれる。本名金二。弟茂(つとむ)は後の思想家土田杏村で、国画創作協会の結成にも協力する。1903年(明治36)、僧になるため京都に出たが、画家を志して預けられた智積院から出奔、まず鈴木松年の門に入り、松岳と号した。しかし旧派の松年に飽き足らず、04年竹内栖鳳に入門して麦僊の号を受ける。翌年から新古美術品展に出品。08年の第2回文展で〈罰〉により3等賞を受賞。09年新設の京都市立絵画専門学校別科に入学、11年に卒業した。この間、黒猫会、仮面会を結成し展覧会を開いた。絵専卒業制作〈髪〉により第5回文展で褒状。中井宗太郎や雑誌「白樺」の影響で西洋美術に触れ、〈島の女〉(第6回文展)、〈海女〉(第7回文展)などを発表。1918年(大正7)には、竹喬、紫峰、華岳らと国画創作協会を結成、第1回展に〈湯女〉を出品。1921年竹喬、晩花らと渡欧、ルノワールの画室を訪門するなど西洋美術に直接触れ、23年帰国。翌24年第4回国展には〈舞妓林泉〉を出品。1928年(昭和3)の国画創作協会解散後は官展に復帰した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||