徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
N.Y.-D.T.-10-1966
1965-66年
アクリル絵具 キャンバス
232.3×231.9
川島猛 (1930-98)
生地:香川県
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川島猛N.Y.-D.T.-10-1966
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徳島新聞連載1990-91

川島猛 「N.Y.-D.T.-10-1966」

吉川神津夫

川島猛は現在89歳、2016年に50年以上暮らしたニューヨークを引き払い、故郷の高松に戻り制作を続けている。
 今回紹介する作品< N.Y.-D.T.-10-1966>は、川島が渡米して間もない頃の作品である。この作品について考えるにあたり、渡米までの川島の歩みを見ていきたい。
 川島は1947年に高松工業学校(現高松工芸高校)後、1951年に上京する。そして、1954年には武蔵野美術専門学校(現武蔵野美術大学)油絵科に入学する。ところが、壺やリンゴなどを描かされるカリキュラムになじめず、56年に中退、人体専門代々木絵画研究所に入所する。女性の体には男性にはない変化がある、だから裸婦デッサンは凄く勉強になると、川島は語っている。その後、渡米するまではこの研究所のグループ展や日本アンデパンダン展や読売アンデパンダン展などに出品している。
 興味深いのは、裸婦デッサンというオーソドックスなトレーニングを重ねながら、川島は既存の団体展への出品を目指すわけではなかったことだ。一方、川島が出品していた1960年代前半の読売アンデパンダン展では、反芸術の名の下、既存の絵画や彫刻と言った枠に収まらない作品が次々と生まれていた。ところが、川島はこの潮流に乗るわけでもなかった。当時の作品は、白地に黒い線の象形文字の様な形を一面に描いた絵画作品や瓦レリーフであった。
 そして、1963年の11月に渡米する。当時の知識は美術の中心がニューヨークになりつつあったという程度のものであった。ところが、渡米直後の川島はニューヨークから影響を受ける前にひたすら絵を描き続けたというのだ。< N.Y.-D.T.-10-1966>もその時期に生まれたシリーズの一点である。
それでは、作品を見ていこう。
 正方形のキャンバスが縦5,横5の線で仕切られ、その中にそれぞれどこかエロティックな有機体のフォルムが描かれている。日本の紋章を思い起こすことから、ニューヨークで注目を浴びるようになったものだ。川島によれば、紋章という意識はなく、日本にいた頃、団地の窓を見て、そこに暮らす人々には違うドラマがあるだろうということに思いをはせたことがきっかけだという。
 ここで注目したいのは、有機体のフォルムである。このフォルムは裸婦デッサンの積み重ねの中から見いだされたものではなかろうか。窓の中の人々のドラマという言葉からも、このフォルムが人体に関連したものと考えても無理はなかろう。
 日本的な要素を感じられたことがアメリカで注目を集めた一因かもしれないが、川島が日本からずっと独自の絵画を追求してきた結果が認められ、この地で制作する足場を築くこととなったのであろう。
 *川島猛アートファクトリーのHP(https://kawashima-af.com/interview/)を参照した。
徳島県立近代美術館ニュース No.111 October.2019 所蔵作品紹介
2019年10月1日
徳島県立近代美術館 吉川神津夫